熊野古道と九十九王子

和歌山県が誇る世界歴史遺産。平安時代から京都から皇族や貴族が熊野三山に参詣した。記録に残っている最初が907年に宇多法皇が2回参詣したというもの。白川上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇21回とエスカレートする。後白河上皇のようにほぼ半年毎に参詣するような者も出てくる。が、皇族の参詣がブームだったのは鎌倉時代まで。それ以降は、武士や町人が参詣するようになった。

皇族・貴族が参詣したのが、紀伊路から中辺路をとおって熊野に至るルート。京都から淀川を船で下って、大阪から歩き始めた(紀伊路)。田辺からは山道(中辺路:なかへち)となって熊野に至る。町人や武士が多く参詣するようになると、ルートもいくつか出来た。紀伊路から山越えせずにずっと海岸沿いに進むルート(大辺路:おおへち)、高野山から山を越えて進むルート(小辺路:こへち)のほか、京都や大阪ではなく江戸からスタートした武士や町人が、伊勢参拝にあわせて熊野三山も参拝するために通った伊勢路が出来た。

ただし、王子(おうじ)と呼ばれる、古道を行く参詣者を見守る祠があるのは、皇族や貴族が通った紀伊路・中辺路ルートのみ。九十九王子と呼ばれる祠が、参詣の道に点々とある。九十九とは実数ではなく、数が多いことを示すのだそうな。というのは、全ての王子が長期間存続したのではなく、新しい王子が出来る一方で、古い王子は廃れてしまった。

これについて参考文献(後述)を私の理解で私の言葉に置き換えると、「皇族・貴族が参詣のために通る。沿道の神社等に賽銭をあげる。ので、沿道ではなぜか突然奇跡が起きたとして新たな王子ができる。金だけとって祠の維持もしなかった王子はすぐに廃れてしまった。その一方で、金目当てに新しい王子もどんどん出来た」ということか。

王子が出来たのは皇族・貴族が盛んに参詣に訪れた平安・鎌倉期のみ。金のない武士や町人がいくら参詣したって沿道では奇跡は起きず、王子は廃れていった。だから、武士や町人しか通らない大辺路や小辺路、伊勢路では奇跡も起こらず、王子は出来なかった(小辺路の文献初出は1573年)。貴族が賽銭くれるなら祠は金になる。が、貧乏人がいくら来たって金にならない。から、王子は出来ない。今、神社として生き残っている王子はそもそも熊野参詣ブームの前から地元神社だった。一方、現在では場所も定かではないような王子は、金目当てのものらしい。ありがたみが一気に失せてしまう。

が、それはさておき、日本百名山と同じで、リストアップされていると、人間の達成感をあおり立てる。「和歌山に勤務している間に、熊野参詣道を歩いて九十九王子を見てやろう」という気持ちにさせられてしまう。

ただし、紀伊路は現在では国道となってしまった所が少なくなく、車がビュンビュン走っていて趣がない。どころか危険を感じる。起点だからと言って、大阪の街を歩いたって熊野古道の雰囲気はないし。一方、田辺から山に入る中辺路は、多くは昔のままの山道となっている。し、ガイドマップも整備されていて分かり易い。ので、まずは、中辺路から歩いて見ることにした。

#転勤した時に、地元紙の就任記事で「こちらでは熊野古道を歩いてみたい」なんてリップサービスしてしまったためでもあるんですが。

車で出かけると、熊野古道をいくら歩いても最後には車に戻らねばならない。車を回送してくれるサービスもあるらしいが、料金は1万円以上とバカ高い。しょうがないから、朝歩き始めても、夕方までには起点に戻れるよう、少しづつ分割することにした。

中辺路
  出立王子−三栖王子
  三栖王子−鮎川王子
  鮎川王子−滝尻王子
  滝尻王子−近露王子
  近露王子−岩上王子
  岩上王子−熊野本宮大社
  大日越
  小雲取越
  大雲取越
  那智大社−速玉大社

紀伊路
  
藤代王子
  切目王子
  その他王子 

五体王子

マップをクリック

小山靖憲.歴史の道、信仰の道.図説和歌山県の歴史.安藤精一編,河出書房新社(1988) pp96-100

上皇や女院の参詣が頻繁であった11世紀末〜13世紀初めが熊野三山の隆盛期であり、この時期には貴族の参詣も活発化した。鎌倉時代の承久の乱(1221)以降になると上皇・女院の参詣は衰退し武士の参詣が見られるようになるが、貴族の参詣はなお盛んであって、20回以上という回数を競っている例もある。地方の武士や庶民の参詣がもっとも盛んになったのは御師の活動が顕著になる室町期であって、「蟻の熊野詣」という言葉はむしろこの時代にふさわしい。

俗に九十九王子と言われるように多数の王子が存在したが....。これらは最盛期の数字であって、その他の参詣記にはそれほど多くの王子は見られない。藤原宗忠の参詣を記録した「中京記」には25社以上の王子が見られるが、白原王子の個所に「件の王子、近代初めて出来す、その験あり」と注記され、また、新王子がいくつかみられるように12世紀初頭は王子がつぎつぎと出現する時期であった。王子が急増するのは、上皇や女院の参詣が頻繁に行われた時期と一致しており、彼らの参詣が行われなくなると、寛喜元年(1229)の、「頼資卿記」に「路次の王子、皆もって破壊顛倒し無実なり」とあるように、たちまち衰退したのである。

これはおそらく上皇や女院が王子への奉幣回数を競ったためであり、現地でもそれを歓迎したからではないかと考えられる。したがって、王子の大半はなんらかの「験」によって突然出現するような粗末な叢祠であったが、一方では五体王子と称される立派な社殿を持つ王子も存在した。これは古くからあった神社そのものが王子になったもので、滝尻、稲葉根、発心門などの各王子がそれである。



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